応動昆、持続可能な社会を目指して: 一般社団法人 日本応用動物昆虫学会

書評 昆虫が世界の歴史を変えた-昆虫にそんな力があるのか?

(2022年8月26日公開)

基本情報

書誌名:
昆虫が世界の歴史を変えた-昆虫にそんな力があるのか?
著者・編者:
安部 八州男
出版日:
2022年1月
出版社:
文教出版
総ページ数:
239
ISBN:
978-4-938489-25-3
定価:
2,750円(税込)

蚊,ノミ,シラミなどの昆虫類が日本を含む世界中の君主や為政者に病気を感染させ,その時代の政治に大きな影響を与えた例は,枚挙に遑が無い。著者は,世界史,日本史に造詣が深いことが窺われ,ついつい時代背景の記述に読み入ってしまう。今までに,3回の世界的な流行を起こしたペストは,ヒトを含む多くの動物が感染する細菌感染症であるが,もとはげっ歯類の病気である。感染した動物の死亡率は高く,米国で見られるプレイリードッグのペスト感染では,感染を起こした巣内のほぼ全ての個体が死亡し,巣は裳ぬけの空になってしまう。中国南部からヨーロッパへのペスト流行拡大は,シルクロードの隊商が荷物によって運んだと考えられている。しかし,筆者が以前から疑問なのは,隊商の荷物に,ネズミが紛れ込んで1か月以上の砂漠の旅が可能であったかだ。荷物の中の感染ノミなら可能であったかもしれない。最近筆者は,ペストの2回目の世界的な大流行が,本当にネズミとノミによって起こったのか,との疑問を投げかけた論文を読んだ。そこでは,ヨーロッパの大都市での感染者と死者の広がり方が速すぎること,死んだネズミの話が全く記録として残っていない点が指摘されている。本書では,病気やその原因となる病原体の特定,媒介動物の特定がいつ行われたかが大きな問題として提起されている。また,当時の診断がどの程度科学的な信頼度を持って行われたかが興味深い。

平清盛のマラリア,ナポレオンの発疹チフス,野口英世の黄熱などは,当時は病原体と媒介者が全く分かっておらず,症状の記録などである程度特定できたが,病気にかからないための予防対策は実施がほぼ困難であった。西郷隆盛がバンクロフト糸状虫に感染していたことは,今までの歴史書等で知っていた。しかし,明治維新の少し前に,奄美大島に3年ほど隠れ住んでいたこと,また,その後1年半ほど沖永良部の牢屋に入れられていたことを本書で初めて知って,当時の糸状虫症の状況を考えると感染したことは十分考えられた。なぜなら糸状虫症は慢性疾患で,感染蚊に一度刺されて感染するデング熱やマラリアとは異なり,フィラリアの感染幼虫を口吻に持ったネッタイイエカに毎日のように刺され,幼虫が人の皮膚から侵入してリンパ管系に移行して起こる病気であるからだ。患者の人体解剖報告はないが,数十から数百匹の絹糸のような成虫がリンパ管内に詰まり,リンパ液の鬱滞を起こした結果,種々の症状が発生するのである。特に沖永良部では,壁のない牢屋に幽閉されていたようで,相当数のネッタイイエカに刺されたことが窺える。筆者は東日本大震災の被災数カ月後に,津波に破壊された住宅地で夜間蚊の調査を行ったことがある。吸血のために飛来してくる蚊をヘッドライトを頼りに捕虫網で日没後30分間採集した結果,海水が混ざった水系に発生するトウゴウヤブカと有機物が多い水系で発生するアカイエカが多数捕集され,1時間当たりで80頭を超す地域が存在した。一晩で考えると数百頭に相当し,本書で取り上げられているパナマ運河建設時代のパナマ,アレクサンドロス大王帝国時代のバルカン半島,西郷隆盛の時代の奄美諸島などでは,一晩に多数のアカイエカやハマダラカに刺される生活を強いられていたことは想像に難くない。大規模な自然災害が発生する現代日本において,時として,当時と同様な害虫の発生状況を経験することが予想される。

ナポレオンのロシア遠征時に流行した発疹チフスは,コロモジラミが媒介するリケッチアによる感染症である。日本では,第二次世界大戦終了後に3万人を超す患者が発生し,約1割の人が死亡した。この病気は戦争と関係しており,第一次世界大戦時にも流行が起こっている。原因は,多くの兵隊が狭い環境で集団生活をし,衣服や下着を取り換えることが不可能な生活を余儀なくされることで,シラミの寄生率が上がることと関係している。現在でも,コロモジラミが媒介する塹壕熱(細菌感染症)が,先進国の路上生活者や貧困生活者の間で散見されており,多数の人が,不衛生な環境で生活を続けると沈静化していた感染症が復活してくることが容易に想像される。本書の黄熱の研究の歴史の部分で,野口英世の研究業績の部分は興味深い。時代に関係していると思われるが,黄熱のような原因病原体がウイルスの場合の研究評価が低くなっている。ロックフェラー医学研究所時代に,研究業績をがむしゃらに追及していた姿が想像され,置かれていた状況の厳しさに胸が打たれる。

本書では,日本の蚊遣りの歴史が詳しい。いろいろな乾燥植物でいぶし,蚊に刺されないようにしていた苦労話は興味深い。縄文・弥生時代の竪穴住居でも色々な材料で蚊をいぶしていたことは間違いなさそうである。ただ,忌避効果があったと考えられるが,殺虫効果はなかったようである。その後,白絹でつくられた「棹吊り式蚊帳」が貴族,僧侶,上級武士などで使われるようになる。しかし,一般庶民では,和紙製の「紙帳」が使われていた。江戸時代に麻の栽培が普及し,蚊帳を麻糸で紡ぐことが始まり,「奈良蚊帳」「近江蚊帳」「八幡蚊帳」などが庶民に普及しはじめたことがまとめられている。多くの日本人は,昭和30年代まで蚊帳のお世話になってきた。著者は,長年殺虫剤の開発の分野で仕事をされていた関係上,「蚊取り線香」に関する歴史が詳しく書かれている。渦巻き型蚊取り線香の開発の歴史は,非常に興味深く読むことが出来る。また,「ファン式蚊取線香」の開発において,ピレスロイド系殺虫剤が何度まで高温に耐えられるかなど開発の歴史が書かれている。

昆虫が媒介する感染症の流行は,戦争と深くかかわっており,それは多数の兵隊の移動や,避難民の大量発生に関係している。大きな自然災害でも不衛生な環境で避難生活を余儀なくされると流行する可能性がある。今後の我々の生活を激変させる可能性のある昆虫が媒介する感染症の問題を考えつつ本書を一読することを強く薦めたい。

小林 睦生 (国立感染症研究所 名誉所員)