バッタの大発生の謎と生態
(2021年7月30日公開)
基本情報
- 書誌名:
- バッタの大発生の謎と生態
- 著者・編者:
- 田中誠二 編著
- 出版日:
- 2021年4月20日
- 出版社:
- 北隆館
- 総ページ数:
- 308
- ISBN:
- 978-4-8326-1010−1 C3045
- 定価:
- 2,900円 (税別)
1986年,鹿児島県種子島の近くの馬毛島でトノサマバッタが大発生した.当時,鹿児島県農業試験場の田中章さんのお誘いで私も現地を訪れ,大発生の凄まじさを目の当たりにした.地上では無数の幼虫が同じ方向に行進しており,植物はほとんど食い尽くされていた.ヘリコプターから見下ろすと,島の上空を飛行するバッタの大群が大河のように蛇行していた.日頃,タマバエのような微小な昆虫を相手にしていた私にとっては,度肝を抜かれる光景であった.
本書を出版された田中誠二さんは,このような大発生をするバッタ類に魅せられて,長年に亘って研究を続けて来られた.その間,野外調査や飼育実験で得られた膨大なデータに基づいて,仲間と共に多くの研究論文を発表されてきた.田中さんは,今回,2020年春のアフリカと西アジアにおけるサバクトビバッタの大発生をきっかけに,2019年7月の「昆虫と自然」に特集された「バッタ研究の現状と今後」を踏まえて,これまでの研究成果を網羅する形で本書を出版されることになった.
本書は次の11章からなっており,4人の分担執筆者も加わっている.
- 1. サバクトビバッタ大発生の謎(田中誠二)
- 2. サバクトビバッタとトノサマバッタの起源(徳田 誠)
- 3. 行動から見たバッタの相変異(原野健一)
- 4. バッタの体色と相変異:環境要因(田中誠二)
- 5. バッタの体色と相変異:ホルモン制御(田中誠二)
- 6. バッタの体色と形態を遺伝子の働きから調べる(管原亮平)
- 7. 親の混み合いが子の形質を決める仕組み(田中誠二)
- 8. トノサマバッタの寄主特異性:染色体導入法によるアプローチ(徳田 誠)
- 9. 魔法の砂に含まれる産卵と胚発育抑制要因(田中誠二)
- 10. バッタのふ化時刻とそれを決める仕組み:温度と光周期の役割(西出雄大)
- 11. 卵塊から一斉にふ化する仕組み:胚が発する振動(田中誠二)
第1章では,サバクトビバッタの生態的特徴や天敵,大発生の被害と対策,大発生の原因と気候変動,人間社会との関わりなどについて,様々な情報や基礎知識が紹介されている.さらに,バッタの混み合い具合に応じて行動や体色を変化させる相変異と呼ばれる現象や,大群で移動する適応的な意義についての田中さんの考え方が述べられている.
第2章には,サバクトビバッタとトノサマバッタの種分化のシナリオが書かれている.遺伝子解析でサバクトビバッタとトノサマバッタがアフリカ起源であることが判明した.前者の子孫の一部が約600万年前に大西洋を渡って現在の南北アメリカに定着した.後者はアフリカで誕生したのち,ヨーロッパに分布を広げたが,約100万年前の氷河期にヨーロッパ集団が隔離され,その後,ユーラシア大陸を東進して日本にたどり着いたと言う.アフリカの集団は中東からインドを経て小笠原諸島や南西諸島にやって来たらしい.
第3章では,サバクトビバッタやトノサマバッタでも,ふ化幼虫の活動性に親世代と子世代の混み合い具合が影響しているものの,幼虫の集合性には親世代の効果がないと記されている.ふ化幼虫の集合性は親の混み合い具合にかかわらず,様々な昆虫で見られ,通常,幼虫の成長とともに集合性が失われていく.しかし,トビバッタ類では混み合い状況が続くと,幼虫の集合性が持続していくのではないかと考えられている.
第4章から第6章では,バッタの体色変化を制御する環境要因と多様な体色を誘導するホルモン,それに関与する遺伝子について,これまでの研究過程や進展具合が解説されている.サバクトビバッタは個体数が増えて混み合いが生じると幼虫が黒化して群生相の体色を示すが,黒斑紋の発現は高温で抑えられ,低温で促進されると言う.老熟幼虫になると地色が鮮やかな黄色かオレンジ色になるが,高温でより強く誘導されるらしい.一方,低密度下の孤独相の幼虫は,生息場所の背景の色合いと彩度に依存した体色多型を示し,時には,明度依存的な黒斑紋個体も出現する.茶色型は孤独相の特徴の一つであり,混み合いの影響を少し受けた転移相ではないことも判明した.
サバクトビバッタとトノサマバッタの黒化を誘導するホルモンの正体も長年の謎であったが,田中さんらは,様々な実験を重ねて,そのホルモンがコラゾニンであると同定した.第6章で詳述されているように,コラゾニンの遺伝子が特定され,その発現パターンなども明らかになってきた.執筆者の管原さんが強調されているように,この章で示されている遺伝子特定までの道筋は,若い研究者にとって今後の研究の進め方に大いに参考になるだろう.
サバクトビバッタでは,低密度下の孤独相の雌は1卵鞘当たり約120個の卵を産み,それらは緑色の1齢幼虫になる.一方,大発生時の群生相の雌は80個しか産卵しないが,卵サイズが大きく,ふ化幼虫は黒色となる.親の混み合いが子の形質を決めるかどうかについての研究過程では,田中さんの心中に複雑な葛藤があったようだ.第7章では,そのことが随所に滲み出ている.彼の研究室内で得られた異なる実験結果について,様々な追加実証実験で,ふ化幼虫の体サイズと体色の関係は,産卵後に卵が受けた雌の付属線由来のフェロモンでは説明できず,卵巣内で決まる卵サイズの大きさで説明できるという結論に達したようだ.
トノサマバッタは様々なイネ科植物を食べるが,なぜか,オオムギの若葉は食べない.第8章では,この疑問を解明するために,オオムギの染色体を1対ずつ導入したコムギ系統を用いて,トノサマバッタの摂食に影響するオオムギの遺伝的背景を研究した経緯が述べられている.オオムギにはトノサマバッタの摂食を妨げるだけではなく,発育を遅らせ,生存率を低下させるなど,様々な効果を持つ遺伝子が含まれており,それらが複合的に作用している可能性が示唆されたと言う.イネ科植物に虫こぶを作るフタテンチビヨコバイでも同じような現象が知られており,同様な実験でホルモンの関与が明らかにされている.このような結果を応用した抵抗性品種の育成も視野に入っている.
第9章では,最初にサバクトビバッタの産卵行動の観察記録が詳述されている.ほとんどのバッタやイナゴは土や砂に卵を産む.田中さんらの飼育実験中に,サバクトビバッタの雌が,なぜか,産卵しようとしない謎の砂が見つかった.この行動に興味を持ち,その砂の特徴や由来を調べた結果,産卵を抑制する物質がサバクトビバッタの糞や餌のイヌムギの葉に含まれていることが判明した.飼育個体ではなくアフリカの野生のサバクトビバッタの糞でも,また,トノサマバッタやタイワンツチイナゴの糞でも産卵抑制効果が見られた.餌となる様々な植物にも,何らの産卵抑制効果があるらしい.
糞に含まれる物質は,産卵抑制効果だけではなく,胚発生にも影響してふ化を阻害する効果もあると言う.トノサマバッタやタイワンツチイナゴの糞の抽出物でも同じだった.餌植物によっては,これらの効果が異なるので,今後の化学分析を待たなければならない.サバクトビバッタは,実際に野外では植物の生えている場所から少し離れたところに産卵するらしい.田中さんは,雌が糞の排泄される摂食場所を避けて産卵しているのではないかと考えている.
第10章では,室内と野外での実験により,温度がサバクトビバッタとトノサマバッタのふ化時刻を決める最も重要な要素であることが述べられている.サバクトビバッタは低温で暗い時間帯に,トノサマバッタは高温で明るい時間帯にふ化すると言う.第11章では,バッタ類の一斉ふ化における胚の振動刺激の重要性について,他の昆虫類の研究例も混じえて,幅広い角度から詳述されている.
このように本書は,田中さんらよる多種多様な,しかも,膨大な研究成果で満ち溢れている.平易な文章で書かれているとは言え,一気に読破するにはかなりの時間と集中力を要する力作である.したがって,関心のある章を選んで,少しずつ読み進めるのも一つの方法であろう.一つの章を読むだけでも,十分な知識と満足感が得られる.とくに,害虫防除に携わる本会会員には,ぜひ,大発生の原因や大発生時の被害,防除対策などに関する記述を読んで頂きたい.また,本書はバッタの生態に関心のある専門の昆虫学者のみならず,バッタの大発生に興味を持つ幅広い一般読者層を対象に書かれており,疑問発生から解決までの道筋が非常に分かり易く解説されている.多くのカラー写真で,バッタの体色多型や相変異の実態が視覚でも理解し易くなっている.さらに,実験や調査方法も丁寧に書かれており,様々な図表でデータも詳しく示されている.本書は,これから研究を始める若い人たちが研究計画を立案する時や,先生が学生や生徒の指導方針を考える上でも,非常に役に立つものと確信する.長年に亘って蓄積された膨大な知見を一冊の本にまとめられた田中さんのご努力に心から敬意を表したい.