書評 坂上昭一の昆虫比較社会学
(2022年10月 6日公開)
基本情報
- 書誌名:
- 坂上昭一の昆虫比較社会学
- 著者・編者:
- 山根 爽一,松村 雄,生方 秀紀 共編
- 出版日:
- 2022年4月30日
- 出版社:
- 海游舎
- 総ページ数:
- 354
- ISBN:
- 978-4-905930-88-4
- 定価:
- 5,060円 (税込)
坂上 昭一とはいったい誰なのか。その名を聞いたときに疑問をもつ人がいるかもしれない。無理もない。彼がこの世を去ってすでに四半世紀の年月が流れている。学問の世界では常に真新しく若い芽生えがあちこちから現れ出でては,他の木々と切磋琢磨しつつ成熟し,巨大な古木へと変化している。しかし,古木はやがて静かに忘れ去られてしまうのではなく,新たな土壌をはぐくみ,その存在感を連綿と保ちながら後進の成長を見守っているだろう。その古木の一つともいうべき存在こそが,坂上 昭一なのである。岩田 久二雄・常木 勝次と並んで日本のファーブルとも称される人物であり,彼の研究の主軸はハナバチ類の社会進化でありながらも,数多くの生物を研究材料とし,独自の研究哲学をもって後進となる研究者の育成に貢献した。その業績の厚みと各論文の引用の多さは群を抜いており,世界的にも著名な日本人研究者と言えるだろう。特筆すべきは,英語・日本語のみならず,ドイツ語やフランス語,ポルトガル語で書かれた論文もあることだ。これほどまでに複数の言語に堪能で,それを駆使した研究者は,ほぼ皆無かもしれない。
彼の研究を詳しく知るには,もちろん原著論文にあたるのが良い。といっても,研究者でなければ英語(もしくは他の外国語で書かれている!)論文に手を出していくのはやや荷が重いだろう。そのため,日本語で書かれた著書を読むことから始めるのをお勧めしたい。私もハナバチ研究者の端くれとして,卒業研究を始める頃には,ハナバチや送粉者に関する書籍を買い求めた。その中で坂上 昭一の名と業績を知り,彼の本を神田神保町の古書街で探し回った記憶がある。『ミツバチのたどったみち―進化の比較社会学』『私のブラジルとそのハチたち』『ハチの家族と社会』『ハチとフィールドと』など,やや古書の部類に入るものの,まだ手に入りやすいものがある。この書評を書くうえで,改めて彼の著書をパラパラと開いて読んでみた。専門的な内容を平易な表現に切り替え,時として文学的な表現も交えた文章は,研究の面白さと難しさ,ハナバチの魅力を余すところなく教えてくれる。また,本人の研究をドキュメンタリーとして追った,サイエンスライターの本田 睨による『蜂の群れに人間を見た男-坂上 昭一の世界』も,坂上の人となりや研究スタイルを知るうえで貴重な資料である。本書とともに併せて読んでもらいたい。
彼の研究を支えたのが,坂上流とも呼ばれる観察手法で,本書のまえがきの中では以下のように評している。「透徹した問題意識のもとで,対象とする昆虫の個体や集団の行動を長時間にわたって詳細に観察し,その結果を他の多くの種や異なる分類群の結果と比較して,昆虫における社会進化の道筋を推定する」。彼はミツバチの研究はもとよりコハナバチ,ハリナシバチほか多種のハナバチ類を長時間にわたって観察し,その行動を丹念に記録していった。その活躍の場は日本にとどまらず,ブラジルやインドネシアでハリナシバチ類の観察を行なっている。ミツバチの研究を例にとると,巣から羽化してくる個体をマーキングしては各行動を観察し,その観察に要した合計時間は2000時間にも達するという。徹底した観察により得られた習性と生態を丹念に記述した論文は,今なお燦然と輝く価値をもつ。私も大学院時代に,野外で早朝からハナバチの訪花行動や出巣行動を観察したことはあったが,とてもではないが真似できないことを悟った。ぜひとも一度は,坂上流を踏襲し,何冊もの野帳を積み上げるような観察に挑戦していただきたい。それもまた,彼の研究を理解するうえでの貴重な経験となるだろう。
さて,坂上 昭一を理解するにあたって,本書はどのような位置づけにあるのだろうか。年齢にも研究分野にも幅のある研究者27名が寄稿しており,その内容も千差万別である。まえがきを読むと,第1部は坂上自身の業績や生涯について述べられている。続く第2部はハナバチ類の社会性進化に挑んだ坂上の姿勢や研究貢献について,進化生物学者によって考察されている。そして第3部では共同研究者が,第4部では門下生がそれぞれの研究や指導についてのエピソードを交えて,坂上昭一という人物を描き出している。一人の研究者の生きざまについて,ここまで数多くの研究者が寄稿した「評伝」は,昆虫学の分野では例を見ないものではあるまいか。私自身も残念ながら本人にお会いしたことはない。そのせいもあって,幾多のエピソードと論考の詰まった本書は,「待望していた」一冊であった。
この本を読むときには,すでに研究者として活躍されている諸氏は第1部から順を追って読むことで差し支えない。私は,高校生やこれから研究を始める大学生へは別の読み方をお勧めする。まず第1部を最初に読む。そしてそのあとはパタンと一度閉じ,エイヤっと開き,出てきたページから読む。つまりランダムに,執筆した研究者を選んでその内容を読むわけである。ここでは各研究者が思い思いに自分の知識と思い出と感情を出し合って筆を走らせている。しかもそれぞれが第一線で活躍してきた,または今を時めく気鋭のビッグ・ネームの研究者たちである。どのページも面白くないわけがない。共通の題材「坂上 昭一」をどのような切り口で語っているのかを読めば,各自の人となり・思考性が見えてくる。読者には,ハナバチだけではなく興味を惹かれた分野や生物種が必ずあるだろう。それはとりもなおさず坂上 昭一自身の研究対象がハナバチにとどまらなかったこと,その研究を引き継ぎ発展させた研究者が数多く育っていたことを意味している。
この書評は,日本応用動物昆虫学会の出版する専門誌に掲載される予定だが,願わくは複写してどこかに掲示でもしてもらうことで,多くの中・高校生や大学生,一般の方々の目に留まることを希望したい。そして,それをきっかけに本書を手に取り,研究の道を目指す学徒が一人でもいてくれることを切に望む。