書評 昆虫の休眠
(2024年6月15日公開)
基本情報
- 書誌名:
- 昆虫の休眠
- 著者・編者:
- デビッド・L・デンリンガー 著/沼田英治・後藤慎介 訳
- 出版日:
- 2024年3月
- 出版社:
- 京都大学学術出版会
- 総ページ数:
- 560
- ISBN:
- 978-48140-0509-3
- 定価:
- 9,350円(税込)
昆虫は環境の季節的変化に対する生存戦略として生活史の中に休眠を進化させた.多くの昆虫では,その活動は1年のうちの短い期間に限られ,それ以外の季節は,成長や生殖を停止させている休眠状態で過ごす.昆虫の生活史は休眠を軸として成り立っているとも捉えられ,休眠が発生や分布に密接に関係していることは理解しやすいだろう.また,実験用の昆虫が飼育下でも条件次第で休眠に入る可能性があるため,休眠に関する知識が思わぬところで役立つことがあるだろう.
本書は,長きにわたり「昆虫の休眠」研究分野を世界的にリードしてきたデビッド・L・デンリンガー博士の集大成ともいえる大著「Insect Diapause」が,日本人研究者2人によって訳されたものである.
一口に「昆虫の休眠」と言っても,その季節や生態学的意義,誘導条件,生理学的変化,個体群間や個体間の変異など多様な切り口がある.過去にもこの分野の大家によって成果がまとめられたいくつかの名著とされる本が発行されており,それらは進化的な背景を考察しながら,休眠を生理生態学的視点からまとめることに大部分のページが割かれていた.
全12章からなる本書では,過去の知見を更新しながらデンリンガー博士自身が最も力を注いだ分子生物学的なアプローチから得られた成果を加えることに力点が置かれている.「昆虫の休眠」研究は,生活史のよくわかっていない昆虫がいた場合に,温度や光周期が調節された飼育環境や野外観察を行う場所があり,飼育や観察を続ける気力さえあれば,すぐにでも取り掛かることができ,次々と新しい発見ができるという魅力がある.現在では分子生物学実験を手軽に行うことも可能になってきているが,そうではなかった時代から,このような研究分野に常に最新の手法を取り入れて発展させてきた著者の功績はめざましいものがある.
本書について特筆すべきことは,分析技術が発達していない時代の成果から最新の分子生物学の手法を取り入れた成果まで多岐にわたる膨大な内容を,約1800にも上る文献を引用して1人でまとめ切っていることである.デンリンガー博士自身やその同僚,門下生による成果が多くの部分を占めている「9章 休眠を制御する分子シグナル経路」は,分子生物学に精通していなければ簡単に読み進められないかもしれないが,それ以外の部分を読むだけでも十分に楽しめるだろう.特に「12章 休眠研究の応用」は斬新で,近年の課題である社会実装,すなわち昆虫の休眠研究で得られた知見・成果を害虫管理や昆虫の保全へ活用することへのチャレンジがうかがえる.なお,本書には筆者(新谷)の関わった9報の論文が引用されている.その中には,ある昆虫の休眠性に関する選抜による系統の作出や,1年を超える長い生活史を持つある昆虫の休眠に関する論文で,タイトルやアブストラクトの書き方にインパクトがなかったことで,力作の割にはこれまで引用されることが少なかったのではと感じているものもあった.しかし,本書に引用されたことで,埋もれかけていた研究を掘り起こしていただけたのではないかと感じている.
原書では熱気に満ちた表現が随所に見られるが,通常,英語で書かれたこれほど濃密でボリュームがある本は,英語が堪能でなければ読む気が失せることもあると思われる.この訳書では,原書の内容を忠実かつ日本人にも読みやすいように著されているので,原書と見比べながら読むことによって,専門知識の習得に加えて英語力の向上も期待できる.昆虫学の未来を担う若手研究者から経験を積んだ研究者まで広く薦めたい一冊である.