モデル生物として人類の科学の発達にもっとも貢献している生物の一つにCaenorhabditis elegansという生物がある。センチュウ、線虫と書くと本種を指すぐらい有名な生物である。本書が出版された2015年は、“線虫の嗅覚が癌を判定”というニュースが流れた。線虫は言うまでもなく、C. elegansである。線虫が癌患者の尿に誘引されるのに対し、健常者の尿には忌避反応を示すとのことだった。本書の第1章にあるように、C. elegansはモデル生物として、研究室内で様々な生命現象を研究するには非常に有用な実験動物となっている。しかし、本種の自然界での生態、生活史、集団遺伝学、他の生物との関係等に関する知識が欠けているという。全ゲノム解析が終了しており、約21,000のタンパクをコードする遺伝子を持つことが分かっているが、その大部分の遺伝子の機能を解明するためには、上述の知識が必要とされるらしい。そこで登場したのが、1996年に記載されたPristionchus pacificusだった。本種は、C. elegansと同様の体サイズで、雌雄同体雌を持ち、大腸菌で培養でき、数日という短期間で1サイクルを終え、体内の顕微鏡観察も容易である。したがって、C. elegansで培われた技術や手法および得られた情報がすべて応用できる上に、生活環境や昆虫-特にコガネムシ類-との関係が知られている。
Pristionchus属が属するDiplogastridae科には多数の属が古くから知られており、博物学的な研究もなされているため、他の生物との関連-特に昆虫類との便乗~寄生関係等-が知られている(第3章)。また、Pristionchus属内にも多数の種が古くから知られており、本属の種も昆虫-特に食葉性・食糞性コガネムシ類やクワガタムシ類-との関係が知られている(第4章)。
Diplogastridae科の線虫と昆虫との関連の多くは便乗関係であり、寄主となる昆虫の生息環境、寄主の死体内、その他腐敗物内の細菌等を摂食する。また、属・種レベルの分類に、口腔内の歯(大歯、小歯、やすり上の歯等)や口腔壁の形態・配列がキーキャラクターとなるほど、Diplogastridae科の線虫は形態的に多様性に富んでいる形質を有する。属・種レベルの系統解析では分子レベルだけでなく、形態レベルの形質評価を加えた解析がなされている(第3、4章)。このようにP. pacificusは、C. elegansに欠けた情報を補完できる新たなモデル生物として、個体群生物学、自然生態学、進化生物学と発生、生理、行動のメカニズム等を統合して研究するために大変有効であることが示されている。
第5章から第7章で、P. pacificusの分子遺伝学、ゲノム研究、化学情報物質に関する研究が紹介されている。第8章では、La Reunion島でなされた生態学的ニッチェや生活史を基盤とした集団遺伝学的研究が紹介されている。島内で分離されたP. pacificusのミトコンドリアおよびマイクロサテライトの分子解析により、4つのミトコンドリア系統および各系統内に特異的なマイクロサテライト群が存在することを見出された。各系統は世界各地で検出されている個体群のミトコンドリア型に対応する。例えば、系統Aは主にインド、中国、日本等アジア地域および散発的に北米、トルコ、ボリビア、ハワイ等から知られていた。雌雄同体雌の自殖によって増殖しうるP. pacificusがこのような遺伝的多様性が、何故La Reunion島で見られるのかが、各系統の島内での分布、調査地点での遺伝的な個体群構造、寄主となるコガネムシ類との関連、寄主の起源とLa Reunion島への地史的な侵入年代、系統間の隔離、隔離・拡散と関連するLa Reunion島の環境条件等と絡めて考察されている。
第9章では、P. pacificusの個体群維持の基本である雌雄同体雌の生殖器系-外部生殖器と生殖腺-の成長に伴う発達と形態が、C. elegansとの比較の上に発生遺伝学的に議論されている。第10章ではP. pacificusの耐久型幼虫の形成メカニズムを主にC. elegansと比較し、感染型幼虫を含めた他の線虫種の耐久型幼虫の行動特性を比較し、その行動特性の生態的、進化的意味合いを考察している。耐久型は線虫の環境適応にとって非常に重要なステージで、多くの線虫で幼虫期に見られる。不良環境条件下で起こる耐久型形成は表原型可塑性で、単一のゲノムによって引き起こされる表現型多型である。表現型可塑性によって生物は極端な環境に適応できる高度に特化した特性を発現させることができる。それゆえ、表現型可塑性は形態と生活史の進化を促進する最も重要な要因の一つであるとされている。したがって、線虫の耐久型形成は発生的可塑性と進化の関係を研究するための卓越したモデルとなりうる。第11章ではPristionchus属の形態的特長である、口腔および口器-歯および口腔壁-の形態における二型について、その形態学的特長、系統発生的由来、生態学的意味等が解説されている。Pristionchus属の種には樽状でやや縦長の口腔と大きな歯と比較的少数の小歯を持つ個体と捕食性線虫を思わせる広い口腔と大きな歯と比較的多数の小歯を持つ個体が見られる。前者はStenostomatous、後者はEurystomatousと呼ばれ、ほぼ完全に二型に分離する。この二型現象の進化生物学的研究や生態学的研究にモデル生物としてのP. pacificusの存在が大きく貢献している。
第12章ではP. pacificusにおける嗅覚研究の進展が、C. elegansと比較してまとめられている。特に、Pristionchus属では生息環境や寄主が解明されているだけあって、生息環境や寄主に特異的な物質に反応することがわかっている。例えば、P. pacificusは寄主であるセマダラコガネの、P. maupasiはコフキコガネの1種の性フェロモンにそれぞれ誘引されることがわかっている。第13章では外部から腸へ餌を取り込み、送り込むための重要な器官である咽頭部(線虫では口と腸の間の部分)を制御する神経系をC. elegansと比較・参照することにより、P. pacificusの咽頭神経系の解剖学的な研究成果を紹介している。最後の第14章では、寄主であるコガネムシ類からPristionchus属線虫と関連する細菌を分離し、得られた細菌とPristionchus属線虫との相互作用に関する研究と、ヒトや昆虫に対して病原性がある細菌を摂食した時のP. pacificusとC. elegansに対する病原性と細菌に対する線虫の免疫系に関する研究から、地球上で最も繁栄している生物群にはいる線虫と細菌の間の進化的関係を考察している。
P. pacificusが、C. elegansでは研究が困難な分野において新たなモデル生物として非常に有効であるのは、近縁種群が知られており、本属の多くの種で野外での寄主が判明していることが非常に大きい。C. elegansに関しては、現在近縁種の探索が行われていると聞く。ちなみに、Diplogastridae科の記載・系統分類や寄主情報に関しては、第3章と第4章の著者になっている森林総研の神崎博士の貢献がかなり大きい。本書とは関係ないが、調べてみると、Caenorhabditis属でも多く種が無脊椎動物と関連があることが知られているようで、C. elegansに関してはその分散にワラジムシ類、カタツムリ類、ナメクジ類等を利用していることが知られており、遺伝的多様性の低い本種の広範な分布(ヨーロッパ、北米西部を中心に世界各地)には、さらにトリ、ネズミ、ヒトなどの関与が推測されている。このようにC. elegansもシャーレ内の情報から自然界での情報も集積されつつある。(FREZAL and FELIX 2015. DOI: http://dx.doi.org/10.7554/eLife.05849、Cite as eLife 2015;4:e05849)。
最後に、本書の中で私が特に興味がある部分を中心に何とか読んで、内容の紹介文を書いたが、内容が非常に豊富であるため、まとまりのない書評になってしまったことをお詫びしたい。
(九州沖縄農業研究センター 吉田睦浩)
【書評】 Nematology Morphology and Perspectives 11: Pristionchus pacificus ? A Nematode Model for Comparative and Evolutionary Biology, Ralf J. Sommer (Ed), Brill, Leiden, 420 pp. 2015. ISBN: 9789004260290
2016/04/19(火)