最近の気候温暖化が南のチョウを北に向かわせているとしても,それらの分布域を決定する自然あるいは人為の要因は複雑に絡み合っていて分布拡大の過程は単純なものではないらしい.
そもそも生物相の移り変わりについて,その全容を確かな根拠にもとづいて捉えることは難しい.Doi et al (2017 Ecol Res)は,地球規模の気候変動が生物の分布や生活史に与える影響を理解するには,大きな時空間スケールで生物の個体数・分布・多様性を扱うマクロ生態学(山浦・天野 2010 日本生態学会誌)の視点が重要であると論じているが,そのために必要となるデータを得ることは容易くない.だが,チョウ類は調査・観察が比較的容易であり,各地域の愛好者や研究者が全国にネットワークを広げているために昆虫のなかでは格段に濃密な時空間データが蓄積されており,各種の生息状態の変化について根拠にもとづく慎重な議論が積み重ねられてきた.本書は,それらを取りまとめて広く世に問う意欲的な試みであり,チョウ類の近年の分布拡大に焦点を絞っている.
本書は,総論(1),3つの章I~III,および総論②から構成される.総論(1)では,編者の井上がチョウ類の分布拡大の諸要因について検討し,気候温暖化のほかに,食草ごとの移動や土地利用の変化による生息適地や食草の分布拡大,放チョウ,あるいは食性の進化などが複合的に関わっていることを論じている.第I章では特に注目される11種のチョウについて分布拡大の経緯と現状が,第II章では北海道から九州・南西諸島までの10地域におけるチョウ類の分布拡大の様相が,それぞれ豊富な文献データにもとづいて論述されている.第III章では,「様々な視点からチョウの分布拡大を捉える」と題して,熱帯アジアや欧米における分布拡大の様相,種内変異や人為要因の重要性,数値計算による分布予測,分布拡大による近縁種間の繁殖干渉や天敵寄生蜂の急速な適応進化の可能性,外来種駆除の試み,放チョウの問題,あるいは外来植物を利用した希少種の分布拡大について,11名の研究者がそれぞれ興味深い研究事例を紹介している.最後に,総論(2)において石井は日本産のチョウ類245種について分布型や生活史特性と分布変化の関連性を詳細に分析し,分布を拡大する31種のチョウの多くが北に向けて分布を広げつつある南方系の広域分布種であること,一方で分布拡大や勢力拡大を示す種よりもレッドリスト掲載種(分布域が縮小する傾向にある種)の方が種数は多く,後者には日華系や北方系の1化性・草本食種が多いことを指摘している.
本書に紹介されている多くの事例や論説は,顕在化しつつある気候変動や人為的移入に加えて,あるいはそれ以上に,人為的な食草の導入や分布拡大あるいは生息環境の改変がチョウ類の分布拡大に大きな影響を与えていること,その背景には高度経済成長期以降の農山村の変貌や市街地緑地の変遷があることを教えてくれる.例えば,各地で分布域を拡大するウスバシロチョウ(ウスバアゲハ)は耕作放棄地に育つムラサキケマンを食草としており,コムラサキやホシミスジは都市部の緑地に生息域を広げている.また,ムラサキツバメは近年急速に東進し,北上している暖地種だが,緑化樹として植栽された食草のマテバシイが大木になって刈り込みされるようになり,その補償作用によって大量の新芽が供給されることが分布拡大を助ける一因となっている可能性がある.
もとより本学会会員のチョウ学進歩への貢献は顕著である.例えば,北方に分布を拡大している日本産のチョウ類のなかで気候温暖化がその主要因であることが生理学的に裏付けられているのは今のところナガサキアゲハだけであるが,その研究は本学会会誌に発表されている(Yoshio & Ishii 1998, 2001 Appl Entomol Zool).分布を拡大するチョウ類には,オオモンシロチョウ,カラフトセセリ(遺伝子の解析と輸入統計の調査から,前世紀末に北米から輸入されたイネ科牧草とともに移入されたと考えられている),クロマダラソテツシジミ,ナガサキアゲハ,ツマグロヒョウモンなど,栽培植物を加害するものも少なくない.しかしながら,むしろ,多くの農林業害虫が分布域を拡大しつつあることを考えると,本書に紹介されているチョウ類の分布拡大に関する諸考察は,そうした害虫あるいは侵略的外来種の調査研究に際して我々に様々な示唆を与えてくれるものに違いない.
私自身は本書をとおして,少年時代に親しんだ身近なチョウ類が生息環境を大胆に変えながらも逞しく生きている姿にふれてワクワクした.ありし日の昆虫少年・少女にも一読をお薦めしたい一冊である.