2004年に「日本産昆虫の英名リスト」(東海大学出版会)を出版された山口大学名誉教授の矢野宏二氏が、新たに全世界の昆虫を対象とした英名辞典を著した。全3巻、1,640ページ、36,000項目にもわたる大著で、まずそのボリュウムに圧倒される。なお、本書は矢野宏二編となっているが、複数の分担執筆者が居るわけでは無く、矢野氏の単著本である。多くの資料から収集した英名を編集してまとめたものであるに過ぎないとの、著者の控え目な意思によるものと推察される。
既知の生物種(以後昆虫に限る)には固有の学名が与えられている。昆虫学研究者が科学論文を書く時には、研究の対象とした昆虫種は学名で示さねばならない。しかしながら、研究者以外の人にとっては、意味が良く分からぬラテン語等で書かれた2命式の学名には馴染みが薄い。そこで個々の昆虫(または近縁のグループ)に対して、より馴染みやすい名前が付けられている。一般名(common name)と言われ、英語圏で使用される英名を意味するが、我が国では和名が相当する。一般名には学名のような厳格な命名時の約束事は無く、かつて誰かが図鑑などで提案したものが広く認知されて、慣用されることで決まっていくような名前にすぎない。したがって、一種で複数の名前をもつ、複数種が同じ名前をもつ、または他の動物や植物と昆虫が同じ名前をもつなどの事例も少なくない。このように一般名は厳密さに欠けるにも拘らず、使用場面はとても広い。昆虫学者でも、普及本や解説書などの著作には一般名を使うし、新聞や放送などの科学情報では、もっぱら一般名で発信されている。昨年各地の港などに侵入して社会問題となったヒアリは、英名imported fire ant、学名 Solenopsis invictaであるが、学名で認知されることはほとんど無く、一般名が広く流通している。和名には古い時代に付けれたものも多く、中にはメクラ、ザトウ、チビなどの身体差別用語を含むものがあり、時にマスコミで非難の的になる。20年ほど前に学会の要請を受けて、分類学者安永智秀氏がメクラカメムシ(類)の和名を、素敵なカスミカメムシ(類)に変えた。このように一般名は変わることもある。
一般名が社会的に極めて高い頻度で使用されるにも関わらず、不思議なことに世界の昆虫の英名が昆虫学者に総合的に検討されたことは、本書以前には無かった。矢野氏によると、学名のように厳密な手順で命名されたものでない英名などは、分類研究者にとって「唾棄」すべきものとして、ことさら無視されてきたようだ。しかしながら、私には唾棄すべきものには思えない。個々の生物を親しみ深い名前で区別することは、その国の言語文化の豊かさを反映している。近代科学の歴史が長い欧米諸国においては、殆どの生物に一般名を付けている。本書の英名の多さで分るように、おそらくドイツでもフランスでも多くの一般名が存在するであろう。矢野(2004)の前著でも分かるように、我が国でも実に多くの昆虫に味わい深い和名が付されている。明治期に西欧科学が導入される以前から、我が国には山川草木への愛着とその移ろいに雅を感じる豊な言語文化があった。また本草学などの固有の生物学も存在しており、古くから多くの生き物を識別していた。一方、例えばインドネシアでは、チョウはすべてkupu-kupuであり、個別の名前は無いらしい。この国の大学では、学生は昆虫学を英語のテキストで勉強するしかなく、その代わり、身の周りの昆虫の学名を実に良く知っている。私も含めて日本の昆虫学者(分類学者を除けば)は、日常的に和名が使えるために学名音痴が多い。
本書の利用の仕方を紹介する。私の愛するイチモンジセセリを3巻和名索引で引くと、2巻919pが指定され、rice skipper, Parnara guttata guttata (Bremer et Grey) (チョウ目、セセリチョウ科)日本、東洋区、の分布情報も付記されている。もう一例オオカバマダラを検索すると、monarch butterfly, Danaus plexippus plexippus (Linnaeus)(チョウ目、タテハチョウ科)日本、東洋区、大洋区、新北区。英国ではmonarchという。北米の個体群は秋に南部、メキシコに移動、集団で越冬とある(なお日本では定着しておらず迷蝶らしい)。
本書は3巻セットで販売されており、個人で買うにはいささか高価ではあるが、学生のゼミ資料作成や、研究者の物書きには欠かせない。大学や研究所の研究室や図書館などには備えておかれることを是非勧める。また学術書の出版社にとって、編集、校閲作業にとても有益な書籍である。