書評「環境動物昆虫学のすゝめ―生物多様性保全の科学―」

2025/06/03(火)

基本情報
書誌名:「環境動物昆虫学のすゝめー生物多様性保全の科学ー」
編著:石井実・平井規央・上田昇平・平田慎一郎・那須義次
出版日:2024年12月
出版社:大阪公立大学出版会
総ページ数:460頁
ISBN: 978-4-909933-77-5
定価:5,000円(税別)

 編著者らがあらためて提唱する環境動物昆虫学は,主として昆虫などの動物を対象とする生物多様性保全の科学であり,本書はその実践的な入門書である.保全動物昆虫学と言ってしまわないのは,人や植物を含めた環境と昆虫・動物の関係性を強く意識するためであろう.序章,第1章「地域の生物群集を調べる」,第2章「生物の生活史戦略を調べる」,第3章「昆虫類の多様性を調べる」,第4章「分子情報を利用した解析」,第5章「人間社会との関係を考える」から構成され,28名の著者がそれぞれ得意とするテーマについて分かりやすく解説している.多くは大阪公立大学(旧大阪府立大学)の環境動物昆虫学研究グループに在籍していた研究者であり,研究現場の吐息が生々しく感じとれる.9枚の全面フォトコレクションのほか,贅沢に配されたカラー写真や図表も理解を助けてくれる.

 石井実(以下,敬称略)による序章「環境動物昆虫学がめざすもの」は,環境動物昆虫学の成立過程と目標,科学的な基礎や手法,社会的重要性について詳細に論じた総説である.日本における昆虫多様性の危機を紐解き,昆虫による生態系サービスの重要性を確かめながら,生態系のさまざまなレベルにおける生物多様性保全の取り組みを紹介し,自然と共生する社会の実現こそが本学問領域の目標だと説いている.日本語の基本書籍や論文を中心に,241編もの文献が引用されており,この学問を体系的に学ぼうとする者にとっての心強い拠り所となるに違いない.

 昆虫を含めた里山の生物多様性を考えるときに,水田の存在と変容を埒外(らちがい)におくことはできない.コウノトリの再導入・野生復帰にともなって,地域絶滅したとされていたアカマダラハナムグリ(動物質を含む腐植に生息する)が再発見されたという那須義次の報告は,水田をめぐる里山生態系の複雑さと強靭さをあらためて思い起こさせてくれる.ラムサール条約登録地として知られる中池見湿地には水田として利用されてきた歴史があり,豊かなトンボ相の維持には人為的な管理が必要だと森岡賢史は指摘している.また夏原由博は,水田を利用する生物の多様性について概観したのち,メソコスム試験やリモートセンシング,環境DNAなど,農業の影響を評価するための最新手法を紹介している.

 生物群集の変化を把握しながら保全対策を検証するには,地域住民と市民科学者の協力をえて,長期的な観察と野外実験ができる共同調査地を設けることが望ましい.大阪府北部に設定された「三草山ゼフィルスの森」では,里山昆虫の保全のための研究が長年にわたって継続されている.西中康明はチョウ類について,澤田義弘は土壌性甲虫類について,このフィールドで行われてきた研究事例を紹介している.後述するニホンジカの増加によるチョウ類の衰退現象も,そうした地道な調査によって明らかになったものである.一方で,希少種の生態や生物相の動態には,広域にわたる調査を積み重ねることでようやく明らかになるものも多い.秋田耕佑は綿密な多地点調査によって,幼生期が長いために不明であった小型サンショウウオの生活史を明らかにしている.また,河川環境のモニタリング調査に必須であるにもかかわらず同定が困難なユスリカ類について,山本直は簡易な同定手法を紹介している.

 ウラナミジャノメの不規則な世代数について竹内剛と長谷川湧人が報告しているように,絶滅危惧種の保全には地域集団間の遺伝的地理構造を理解する必要がある.鳥居美宏と平井規央は大阪府内一帯においてメダカ類の遺伝的多様性の調査を行い,「国内外来種」の問題を論じている.上田昇平は,中部山岳におけるアサマシジミの遺伝的分化を解明し,保全すべき単位としての地域集団を明らかにしている.ミカドアゲハは恐らくは人為的要因によって北限を拡大しつつある種だが,長田庸平は分布拡大による遺伝的地理構造の撹乱を危惧している.このように環境動物昆虫学における分子情報の利用が盛んになるなかで,小林茂樹はDNA解析用標本(証拠標本)を適切に管理することの重要性を指摘している.

 昆虫相やその重要性は人との関係によって変化する.かつて害虫とされていたブチヒゲヤナギドクガは今では地域的な絶滅危惧種になり,上田恵介が調査した害虫時代の生態情報は貴重である.そうかと思えば,多々良明夫はチャノキイロアザミウマが柑橘の「害虫」となってしまった社会的背景について考察していて面白い.また,吉田周は江戸時代以降の博物画や標本コレクションから京都のチョウ相の変化を読み取るなかで,自然環境に関心を向ける市民科学の萌芽に気づかせる.各地で市民参加によるビオトープ整備が盛んになっているが,鈴木真裕は造成して観察するだけでなく,実験的に撹乱を加えるなどの動的な取り組みの面白さと必要性を説いている.長距離移動昆虫として知られるオオカバマダラの生態解明と保全活動は,多くの市民科学者とボランティアに負うところが大きい.ボストン在住の馬淵恵はアメリカ合衆国における市民昆虫科学がどの様に発展し,公的に支援されてきたかを詳しく紹介しており,大いに参考になる.

 生物の保全に生物間相互作用の理解が必須であることは言うまでもない.岩崎拓は,カマキリ類のすみわけ現象を例に,野外実験による仮説検証の意義を論じている.カマキリモドキ類とクモ類の便乗共生にみられる種特異性は,平田慎太郎による詳細な調査と飼育実験によって明らかになった.寺本憲之が紹介しているように,近年のニホンジカの急増には人為的・社会的な要因が大きく関わっており,ひるがえって人を含めた他の生物に対するインパクトも甚大である.だが,ギフチョウなど里山のチョウ類の衰退に,ニホンジカの増加が深く関与していることが明らかになったのは最近のことである.石井は,「三草山ゼフィルスの森」における継続的なモニタリングなど,市民参加による実証的な調査研究が果たしてきた意義と役割を評価するとともに,ニホンジカの管理による植生修復の見通しを前向きに論じている.

 多くの昆虫が保全の対象となる一方で,今もって生態系における役割や多様性が解明されていない昆虫類も少なくない.ベニボタル類は美しい森林性の甲虫だが幼虫期の生態は不明であり,松田潔は変形菌との関わりを示唆している.世界最小の甲虫として知られるムクゲキノコムシ類も,澤田によれば菌類との関係のほかは生活史がわかっていない.チョウ目の多様性はよくわかっている方だが,原始的な小蛾類には未解明なものが多い.広渡俊哉はケースを作る小蛾類について,上田達也はキバガ類について,また,吉安裕は湿地に生息するミズメイガ類について,それぞれ多様性解明の最前線を紹介している.農業害虫の重要な捕食性天敵としてよく知られるハナカメムシ類も亜熱帯・熱帯アジアの多様性は研究途上にあり,山田量崇によって特異な交尾機構を含めて紹介されている.このように多く昆虫が知られることなく消滅する危機にある訳だが,澤田が指摘しているように,生息地が自然保護地域に指定されることによって未解明種の調査研究が難しくなってしまうというジレンマがあり,その解消にも知恵を出しあう必要がありそうだ.

 本書では,環境動物昆虫学それ自身の学問的多様性や雑多な様を認めながらも,自然と共生する社会を実現するという本学問の目標があらためて明確にされている.ギフチョウから見た里山の四季の移ろいを表紙に描いた後藤ななは,「私たちは虫たちの声を聞き,代弁しなければいけない」という恩師(石井)の言葉を紹介している.だが虫たちの声は,自らが招いた環境の変化に追い詰められている,私たち自身のあり様を語っているのかも知れない.

(神戸大学 前藤 薫)