基本情報
書誌名:特殊害虫から日本を救え
著者:宮竹貴久 著
出版日:2024年5月
出版社:集英社
総ページ数:256
ISBN:978-4-08-721317-1
定価:1,100円(税込)
昨今は一般社会でも生物多様性を守ることの重要性が認識されるようになってきており,多様な生物を排除しないようにしようと言われている.害虫になるために進化した虫はいないのだから害虫と呼ぶのをやめようという人もいる.しかし,人間が農業を始めた結果,農業害虫になってしまった,あるいは,されてしまった虫がいる.わたしたちが農業を開始する以前の生活や人口に戻る気がないならば,農業害虫と戦わなければならない.なかでも,海外など離れた地域から新たに侵入した害虫は,重篤な被害をもたらすことが多く,本書はそのような「特殊害虫」と日本の科学者との戦いについてまとめたものである.理解するために必要な知識が随所に盛り込まれている上,楽しい脇道の話題にも触れられているので,興味が尽きることなく読むことができた.
本書のタイトルには「日本を救え」とあるが,日本にどのような特殊性があるのだろうか.欧米諸国の多くと比べて低緯度で湿潤温暖であるために,熱帯・亜熱帯から害虫が侵入しやすい.その一方でいくつもの島に分かれているので,大陸と違って島単位で防除し他の地域に侵入させないことができる.本書は,このような日本の特殊性にも関係して,外国の温暖な地域から侵入した害虫を排除した成功例と必ずしも成功に至っていない例をあげている.
まず,ミカンコミバエの防除の話である.これは誘引剤によるオスの除去によるものである.そして,有名なウリミバエの不妊虫放飼法による防除の話が続く.これに関しては本書以前に,当事者である伊藤嘉昭さんによって1980年に出版された「虫を放して虫を滅ぼす(中公新書)」,伊藤さんと垣花廣幸さんの共著で1998年に出版された「農薬なしで害虫とたたかう(岩波ジュニア新書)」がある.いずれも絶版ではあるが,本書を読んだ後に図書館で借りたり古本屋で買ったりして読み比べてみてもおもしろいだろう.ちなみに,ウリミバエの不妊虫放飼法が最初に試みられた久米島での農林水産省による根絶宣言は,伊藤さんの中公新書出版の少し前の1978年,わが国全体からの根絶宣言は,この2冊の出版の間である1993年のことであった.
次はアリモドキゾウムシである.ウリミバエの成功を知っていると,同じ方法を適用すればすぐに根絶できるのではないかと考えがちだが,対象となる害虫の分類群や生活史,行動が違うと,またこんな苦労を味わうのかという話であった.ここでは,誘引剤によるオスの除去と不妊虫放飼法に加え,宮竹さんが寄主除去法と呼ぶ,「寄主植物を人の力で引っこ抜く」という力業も併用して,久米島と津堅島でこの虫を根絶することができた.しかし,それには久米島で19年間,津堅島で14年間の歳月を要した.実際の現場はこういった苦労の繰り返しなのだろう.巻末に年表が付けられているので,単に年代をたどるのが容易なだけではなく,ウリミバエの根絶宣言が出た直後にアリモドキゾウムシが大きな問題になったなどの対照もできる.
このあとに,ナスミバエとイモゾウムシの話が続く.それまでの輝かしい成功例と比べると,これらは根絶には至っていない.害虫防除は,コストを無視してどれだけ防除するかだけを競うゲームのようなものではなく,経済効果を勘案する必要があり,自然科学の考え方だけでは成り立たないことを感じる.この部分に限らず,本書には単に研究成果が書かれているだけではなく,さまざまな苦悩も含めて宮竹さんの本音が語られている.
本書の刊行は,アリモドキゾウムシに関する原著論文の出版を待たなければならなかったと「おわりに」に書かれている.わたしたち研究者は原著論文を最も重要視するように教育されてきた.新規性,独創性のある成果を原著論文に報告することの意義は言うまでもない.しかし,原著論文には書かないことや,書けないことも多い.少なくとも失敗は論文にならない.わたしたちは先人が失敗したこと,そして成功した場合でも原著論文に著された内容だけではなく,どのような経緯で研究が始まったのか,その過程では研究者たちはどのような苦悩をし,どのような喜びを感じたのかを知りたいし,そこから学ぶことは多い.わたしの場合,これまでに先にあげた伊藤さんの著書も含めて新書を読むことで考えが変わったり,世界が広がったりしたことが何度もあった.そのリストにまた1冊加わったと言える.本書をあらゆる人に読んでいただきたいが,応用昆虫学あるいはその周辺の分野ですでに研究者になった人,そしてこれからそれを目指す学生諸君には特にお薦めしたい.
ところで,初めて「特殊害虫」と聞いた人は何のことかわかるだろうか.たぶんわからないと思う.特殊害虫は単に特別な害虫ではなく,「外国から侵入して農作物に甚大な被害をもたらす昆虫」という意味なのは,この分野の人以外にはわからないだろう.「応用動物学・応用昆虫学 学術用語集」には特殊害虫も特殊病害虫も項目としてあがっていない.宮竹さんは,一般の人が「特殊害虫って何だろう」とこの本を手に取るのをねらってタイトルの冒頭にこの語を持ってきたのかもしれない.どんな用語も定着するまでは,他分野の人には意味がわからないものではあるが,わたしは,できれば一般の人が初めて聞いても内容を想像しやすい言葉を使っていただきたいと思う.
沼田 英治(京都大学学術研究展開センター)