基本情報
書誌名:ハナバチの教科書
著者・編者:横井智之
出版日:2025年9月3日
出版社:京都大学学術出版会
総ページ数:314頁
ISBN: 978-4814006076
定価:2,400円(税別)
今まで読んだ教科書の中で間違いなく一番面白い.教科書と名のついた近い分野の本として思い浮かぶ「ミツバチの教科書(フォーガス・チャドウィックら著)」は,原題がThe Bee Bookなのでハナバチ(bee)の教科書かと思いきや,その内容はミツバチ(honeybee)や養蜂に関する記述がほとんどで,邦題の通りミツバチ好きにとってバイブル的な教科書である.一方,本書「ハナバチの教科書」はまさにハナバチを対象にしている.ハナバチと言っても2万2千種もいるというのだから,それをどうまとめるかを考えると途方に暮れそうである.しかし,本書はまずハナバチについて進化的,分類学的,さらに社会性の違いに着目して,生物学的な位置づけを丁寧に説明した後,衣食住ならぬ「婚・食・住」という3つの視点でハナバチを解説することで,誰にでもわかりやすくハナバチという生き物を魅力的に描き出している.
まず「婚」ではメスとオスの出会いからはじまり,産卵の準備,そして産卵へと話は進み,ハチ目の特徴的な性決定様式と雌雄の産み分け,社会性の維持にかかわる産卵しないメスの話など,興味深いトピックを交えながら,ハナバチの性と婚が紹介されていく.次の「食」では,ハナバチが生きていくためのエネルギー源として花の蜜を食べ,卵を作り子どもを育てるためのタンパク質や脂質を得るために花粉を食べるというまさに「花」に依存した蜂であり,いかに花という資源をうまく利用しているかが描かれる.一方,花にとってはハナバチに花粉を運んでもらうための工夫があり,花とハナバチの間の長年のかけひきが多様なハナバチを生み出す原動力になってきたわけだが,その結果,ハナバチは花粉媒介者として最も重要な役割を果たしていることが説明される.3つめの「住」では,巣を作って子どもを育てるハナバチならではのトピックであるが,ハナバチの多様性を示すようにその場所は地中,木の洞や筒の中,さらにはカタツムリの中に巣を作るハナバチが紹介される.さらに他の種の巣に寄生するハナバチや,巣を襲う天敵とそれに対する防衛へと展開し,営巣場所をめぐる様々な生物の関係を知ることができる.この婚・食・住のセクションを読めば,ハナバチという生き物の生態学的な特徴を知ることができる本書の核をなす部分であろう.
しかし,ここまででまだ本書の半分を少し過ぎたあたりだ.さらに第5章と6章が後に続いているのだが,実はこの2つの章は著者が訴えたい大切なメッセージを含んでいるのではと感じた.ハナバチ自体にあまり興味のない人や,サイエンスな生物学にはちょっと壁を感じるという人はぜひこの第5章から読んでみてほしい.ハナバチという生物が,我々人間とどのように関わってきたのかを歴史的,文学的な面から紐解かれている.現在も多大なる恩恵を受けていることは,生き物好きでなくてもすべての人に知っておいてもらいたいことだ.さらに6章ではこの魅力的かつ大切なハナバチが危機に瀕しており,それを解決するために我々一人ひとりに何ができるのかを問いかけている.生物多様性の喪失が急速に進む中,自然を取り戻しさらに良くしていこうというネイチャーポジティブの気運が世界的に高まってきている.本書のわずか5ヶ月前に著者が出版した「もしもハチがいなくなったら? (岩波ジュニア新書)」は,まさにこの6章の内容をタイトルにした本であり,ぜひ本書と併せて読んでいただきたい.
さて,ここまで紹介したように本書は紛れもなく「ハナバチ」を主題にしていることは明らかだ.では本のタイトルどおり「教科書」なのだろうか?そもそも教科書とはなんだろう.広辞苑をひいても生成AIに聞いても,おおよそ次のような答えが返ってくる.「教科書とは,学校教育で特定の教科を学ぶために用いられる教材・図書」.本書にはおそらく,筑波大学で教鞭をとる著者が講義の中でこれまでに試行錯誤しながら話したこと,これから話したいことが詰まっている.著者は「ハナバチたちと向き合い始めてまだ20年も経ていない」と言うが,ハナバチに向き合い,研究し,それを人にわかり易い言葉で伝えてきた内容がこの本となった.大学に行かなくてもハナバチについて学び,人との関わりを知り,自然や未来を考えることができる,この本はそんな贅沢な教科書である.
おまけ?(補遺)として最後に収録された「ハチに関わる故事・ことわざ」も実はすごく気に入っている.私自身ハチには割と馴染みのある方だと思うが,ここで紹介された故事・ことわざの半分ぐらいしか知らなかった.同じく補遺の「ハナバチ図鑑」にも見たこともないハチたちがならぶ.まだまだ世の中知らないことばかりである.
最後に,心に残った言葉をひとつ紹介したい.「Leave no organism behind」(どの生物も取り残さない).2万種もいるハナバチの中にはほとんど名も知られず,誰にも気づかれずに消えていくものもいるかもしれない.でもそんな生物があまた存在することで自然は成り立ち私達の生活がある.道端に咲く花やそこに訪れるハナバチの名前がわからなくても,この言葉を思い出せば,名も知らぬ小さな虫や花たちに少し優しくなれる気がする.本書を読み終えた人が,花から花へ飛び回るハナバチに足を止め,少し目を凝らしてくれることを信じて本書を推薦する.
前田太郎(農研機構農業環境研究部門)