書評「人間と昆虫のこれからを考える」

2026/01/09(金)

基本情報

書誌名:人間と昆虫のこれからを考える(岩波ジュニア新書1006)

著者:沼田英治

出版日:2025年11月20日

出版社:岩波書店

総ページ数:186頁

ISBN:978-4-00-501006-6

定価:880円(税別)

書籍の発行に至る背景を紐解く際,誰が執筆したかと同じくらいに,誰によって出版されたかは重要な情報を提供する.改めて岩波書店【岩波ジュニア新書】の創刊の辞を引くと,「現代社会にはらむたくさんの様々な矛盾を解決するために,若い世代には新しい英知と真摯な努力が切実に必要とされている.容易に『現実』と妥協したりすることのないように,現実に立ち向かうために必要とする知性,豊かな感性と想像力を,自らのなかに育てるのに役立ててもらえるよう,創刊した」と要約できるかと思う.悲しいかな,様々な矛盾が乱立することについては本新書刊行当時の1979年から何ら進歩がない様にも映る現代社会だが,一方で,若い世代が取り組むべき「妥協せず現実に立ち向かう」という課題が,時代は変われど不変の真理であることも同様かと思う.

その課題に向き合う(おそらくは昆虫好きの)若い世代へのエールとして,著者は同じく本新書に「生きものは昼夜をよむ:光周性のふしぎ」(2000年)と「クマゼミから温暖化を考える」(2016年)を著した.いずれも著者の専門知識を最高濃度に抽出し概訳した良書である.一転して本書「人間と昆虫のこれからを考える」では,改めて「昆虫嫌いな人や,昆虫とは関係ないと思って人生を送っている人に向け,啓蒙ではなく双方向の対話を通じて,認識が変わることを期待」し,新たな解を提案する.(オオサカを感じさせない)丁寧な敬体の筆致で,まるで偉大なる昆虫学者である著者が隣に佇むかのような雰囲気で,昆虫と人類との関りについて「虫嫌い族」を諭す.

本学会には,本当の意味での昆虫嫌いはおそらくは一人もいないであろうから,学会員に向けて本稿を公開する意義は「著者の伝道師をひとりでも多く増やすこと」になろうかと考える.著者を,わが国における昆虫学の振興において,陰になり日向になり,牽引役となり後見役となり,基礎研究と応用研究の垣根があるようでないものであることを自ら具現化してきた「生ける伝説」と評して,異が唱えられることはないだろう.日本では44年ぶりに2024年の京都において開催された第27回国際昆虫学会議ICE2024 KYOTOの招致においては招致委員会委員長として,最も尽力した人物のひとりとして歴史に名が刻まれたことも記憶に新しい.その著者が,歴史に残る昆虫の逸話,人類との関わり,そして本人が行った研究よりも多くの他の研究者による昆虫にまつわる昨今の研究成果を,余すところなく紹介する.著者と同じ時代を生きる「虫屋」が「沼田英治」の著書を読む際,行間ばかりを読み進めてしまうことは意図せぬ厄介ごとではあるが,学会員であれば,そのような読み方も相応しいのではないか.

【プロローグ・ゴキブリから考えてみよう】「ゴキブリ」という「鉄板」を題材に,人に危害を加えないのにもかかわらず理不尽に嫌われる昆虫の例を紹介し,理由もなく極端に昆虫を嫌うことに対して問題提起する.好き嫌いを超越した有意義な挑戦に読者を誘う.

【第1章・昆虫って何?】昆虫のおびただしさの象徴,「数」からの導入.DNAや進化事象のように「もともと目には見えない存在」ではなく,本来は目に見えるはずのものが「あえて見ようとしなければ見えない」ことを見事に訴えかける.

【第2章・昆虫の体】イントロの「バルタン星人」には写真が添えられ,これを知らないかもしれないひと達を置き去りにしない.一方で,ゆるいグラフィックとは裏腹に,本気の外骨格・内骨格概説,変温動物・恒温動物の熱効率概説,ガス交換概説にもとづき,架空の異星人は論破される.著者のライフワークともいうべき「光周性」や「環境条件に対する表現型可塑性」への筆の熱がストレートに伝わる前半の山場.

【第3章・病気と昆虫】本章以降は昆虫と具体的にどう向き合うかを若い世代の知性に問う実践編.「理性で昆虫を嫌う層」や「昆虫とは無関係を自認する層」でも比較的興味を持ちがちな話題が序盤である本章にして既に登場していることが,後から考えると大きな伏線となっている.

【第4章・農業と昆虫】ヒトの歴史における農業のはじまりから,植食性昆虫の害虫化プロセス,そこにおける移動や相変異の関わり,殺虫剤の開発から普及,殺虫剤抵抗性の発達,さらには農業生態系の管理から総合的害虫管理(IPM≒総合防除)に向けた課題まで,現在に至る農業現場で起きている現象が臨場感を伴って紹介される.

【第5章・生活の中の被害】昆虫によるヒトへの実害とは何か,ヒトにとって「嫌い」とは何かを問う,本書における最も哲学的な章.論説する著者の立場は,勿論だいぶ「昆虫寄り」であり,実験材料として供されてきた数多の昆虫たちへの弔いではないかと錯覚する.

【第6章・人間に恵みをもたらす昆虫】古くから人類の文化や経済に大きな貢献をもたらした昆虫たちが紹介される.なお,嗅覚に訴えかけるカメムシのソレは「恵み」にリストされてはいないが,芭蕉も嗅いだ匂いだと思うと蝉の声同様に愛おしい.

【第7章・新しい恵みをもたらす昆虫】虫嫌いであれば,SF顔負けの驚愕に値する技術や研究成果にはこの章で初めてお目にかかる人も多いはずである.思い返せば,これら最新の技術が集結した世界最大の昆虫学のイベントこそ,ICE2024 KYOTOであった.我々に貴重な場を与えた著者を始めとする多くの関係者への感謝を新たにする章.

【エピローグ・人間と昆虫のこれから】人間と昆虫のこれからを考えることは,人間が人間自身のわがままとどう向き合っていくかを考えることと等しいように感じられる.本書において「農業」は扱われる話題のごく一部に過ぎないが,人の最たるわがままが,人が生きるすべである「農業」ではないかと考えられる.著者は桐谷圭治氏の「ただの虫」の概念を引き,あらゆる「農業害虫」が「ただの虫」に戻る未来に期待を寄せる.

農業試験場で農業害虫防除の研究をした経験があるだけの私が「農業害虫との戦いの現場」について語るのは畏れ多いが,現場にいて願うのは,ともに戦う若い世代の成長と,彼らの活躍に他ならない.著者をはじめとする,他の強い影響力のある大家と異なり,一介の普通の先達としては,せめて楽しそうに日々仕事に取り組む自らの背中を若い世代に見せることくらいしかできないが,本新書や本書の意図とも相通ずる,「妥協せず現実に立ち向かう」ために役に立つ何かを,多少なりとも提供できればと期待する.適切なアナロジーになるか不安だが,「好適な栄養にありつくことのできる環境条件下では定着しやすい短翅型,過酷な環境条件下では移動しやすい長翅型が出現する」という害虫のくだりは,限られた資源や環境を上手に活用する昆虫らしい進化の結果であるが,農業現場の問題解決を目指すジェネラリストとしては,好適な条件下には留まらず,あえて過酷な環境条件下にこそ身をさらす選択をしていきたいものだと,決意を新たにする.

エピローグには「期待される理想の農業未来像」として語られるが,実際のところ,農業害虫に対して農薬に依存した対策で奮闘している栽培現地は,すでに行き詰まりに陥っている場合が多い一方で,安定して農業生産を行っている現地では,自ずと,農薬も活用しつつ「農薬以外」の技術(新旧は問わず)と上手に組み合わせ,虫がいる前提で,これらが増えすぎないように合理的な対策が取られていることも事実である.著者の期待に応える多くの農業現場をご覧頂ける日も,そう遠くないうちに来るように思う. 本書全体を通して,(昆虫に対して寄り添う側の視点に重心が置かれている以外は)著者のサイエンティストでありナチュラリストとしての極めてニュートラルな視点から様々な事象,問題が切り取られており,読者は安心して読み進めつつ,昆虫にまつわる多くの最新の知見に触れることができる新書である.まさに,「昆虫嫌いな人や,昆虫とは関係ないと思って人生を送っている人」に向けた,対話を引き出す入門書と拝読し,著者の「会心の一撃」を目の当たりにした(ドラクエもされるそうである).

清水 健(千葉県農林水産部担い手支援課)