書評 「ソバとシジミチョウ 人-自然-生物の多様なつながり」

2024/01/12(金)

基本情報
書誌名:ソバとシジミチョウ 人-自然-生物の多様なつながり
著者・編者:宮下直 著
出版日:2023年9月25日
出版社:工作舎
総ページ数:256 ISBN:978-4-87502-557-3
定価:2,860円(税込)

タイトルを一見して,どんな内容の本だと思うだろうか.表紙には,美しい青藍色の翅をもったチョウが小さな花を訪れている姿の写真が使われている.シジミチョウというなら,チョウ好きの研究者がその生活史などを詳しく書き連ねたものだろうか.いや,ソバと書いているのであれば食料生産の話だろうか.一般の方には,本書を手に取る前にそんな逡巡があるかもしれない.少しでも生態学という学問分野に足を踏み入れた研究者や学生諸氏であれば,著者名を見ればたちどころに,多数の専門書や一般書を執筆している研究者の書いた本だとわかるだろう.高名な研究者の本ほど難解なものと思うのは早計だ.もちろん,この時点で著者の名前を知らなくても構わない.250ページほどある本の厚みにやや気後れするかもしれないが,まずはページを開いてみよう(もちろん,購入してからがベストではある).ほどよい文字の大きさ,文章の歯切れのよさ,写真やイラストも十分にある.専門知識がなくても大丈夫そうだ.そこまで確認できたら,あとは家に帰ってからゆっくりと読むのが一番だ.

それにしても,ソバとシジミチョウの関係とは何だろう.この疑問は,一般読者も研究者もすぐには解けないかもしれない.そのタイトルが意味するところは,著者も書いているように「読んでのお楽しみ」となっている.本書では,「人-自然-生物」の多様なつながりについて,長い地球上の歴史の中で,それぞれがどのような関係を築き上げてきたのか,どのような問題を抱えてきたのかを取り上げている.現代の私たちは利便性や快適性を追い求め,ついには脱自然化という状況に至っている.人口減少と社会の成熟も相まって,自然環境を利用しなくなったことが,生物の多様性減少に拍車をかけている.本書は,そのような状況の中で,私たちが自然やほかの生物たちと今後どのように付き合っていけばよいかという指針を示してくれる一冊である.

本書は,全4章から構成されており,それぞれに興味深い内容が満載である.第1章は人類の歴史の振り返りである.まわりの自然環境をそのまま利用して生存していた,生物としての「ヒト」であった時代から始まり,自然を自分たちの生活や社会に必要な状態へと変貌させた「人」の歴史が概説されている.第2章では,著者の半生におよぶ,多様性に関する研究の一端が紹介されている.ここでの対象生物は,クモや昆虫だけではなくシカやカエル,ザリガニに加えて,ノネコまで登場する.幅広い生物を視野に入れた研究テーマの広さがうかがえる.第3章では満を持して,ソバとシジミチョウが登場する.ようやく本書のタイトルが回収されることになる.舞台は長野県上伊那郡の飯島町.私も現地に行ってみたことがある.中央アルプスと南アルプスに囲まれ,伊那谷の中央に位置する場所である.美しい山並が前後に見える,その景色は壮観だ.この章では,著者が,幼少期の思い出にある無数のミヤマシジミの飛び交う姿を,四十年の時を経て再び目にしたところから始まる.ミヤマシジミは現在,絶滅危惧種になっている希少種である.著者はその保全を目指すとともに,この地域で栽培されていたソバの実りの向上にも注力していくことになる.研究に参加している何人もの学生とともに,フィールドワークを主体とした研究が進行し,徐々に町や地域を含めた大きなつながりへと展開していく内容は読みごたえがある.第4章は,それまでの章とはやや趣が変わる.環境経済学者ハーマン・E・デイリーの提唱した,持続可能な発展の三原則を踏まえて,私たちの社会と自然環境との今後の在り方を問うている.

気が付けば,あっという間にページを読み進めていた.ぜひとも世代や分野を超えて多くの方に読んでいただきたい.そして読了後は,現地を訪れることをお勧めする.著者の研究内容や活動の様子を文字で読むだけでは物足りない.この本でも述べられているように,生態系を五感で感じてほしい.それは難しく考えることではない.例えば,飯島町でふらっと店に入って,打ちたての蕎麦を一気にすする.お腹が満たされたら,白いソバの花咲く畑と黄金色の稲穂がみのる水田の傍を歩こう.熱心に農作業している人たちが見える.そして畔まわりを飛び交うミヤマシジミやほかの多くの昆虫たちが目にとまるだろう.その光景にこそ,人が自然やほかの生物とともにあるべき姿が見い出されるのではないだろうか.

横井 智之(筑波大学大学院生命環境系)